作物

私の描く絵は、下書きがない。エスキースがない。
無意識と意識のあいだで描く ・・・と説明してきた。
あらためて思うに、それは「駄」あるいは言葉はわるいが「糞」ではないか。

自分では座禅を組むように絵を生みだし、最終的には1作にまとまるように
意識の割合を多くしていって仕上げたつもりである。
しかし実際は野方図で、好きなようにばらまいたタネに水をやって、
たまたま育って実をつけてくれた程度のもの。そんな気がする。
作品と呼ぶのもおこがましい。品のない、作物(さくぶつ)とでもいうべきか。
(しかし分厚い辞書を引けば、作物も芸術作品の意とあるのだが。)

では(私にとって)作品のあるべき描かれ方とはどのようなものか。

まずはじめに意図や欲求があり、
それに沿いながらも意識と無意識のやりとりで織りあげていくもの。
そして何より、その作業の折々に、見えない鑑賞者との対話が
果たされなくてはならない。

その絵は何?、おもしろいつまらない、何かを感じる感じない・・・・

伝わる何か、納得できたり、刺激や面白味が含まれなくてはならない。
これらのバランスを上手にとり、謙虚に大胆に描いていくこと。

作為がすぎれば、それは意匠、グラフィックデザインとなってしまうし、
無意識がすぎれば、鑑賞者に届くもののない自己満足、欲求の発露でしかない。
特に後者は快感をともなう。無意識をうまく使えばいくらでも奇妙な絵は描けるし、
世界を手に入れたような高揚感がある。
結果として何かは出来上がるが、「駄」であり「糞」である。

私は自分の作ったものを愛さない。自作を愛すなど気味が悪い。
しかし敬意ははらう。鑑賞者がいるかぎり、作品は大切な存在でありつづける。
個展をしたり画集を作るのは、つまりそういうことだ。
作品に働かされている。手間や時間やお金を使う。

話を戻せば、先述の三つのバランス、これがひどく難しい。
慎重にはじめようとすると、1本の線すら引けずに立ち止まってしまう。
長い長い黙考。
気ままに始めると、質量が軽くなる。線がスカスカと抜ける。
思いが全く反映されない。

自らを高め「作品」をものすべく、しかし今はまだ立ち止まる日々だ。
立ち止まるな描きつづけろ、という声も自分の中からは聞こえてくる。
ホルスト・ヤンセンは、四六時中、画線を引き続けていたという。
そういうがむしゃらさは好きだ。まさに私も頭を空にして、線を引いてきた。

しかし今は、自分の絵にもっと「モチーフの力」「文脈・物語」を与えようとしている。
・・・それが難しい。