2025年抱負 文章を描く
〈無垢な欲望〉 私のなかに静かに燃える欲望の炎があります。私はこれをリビドー(ユング的な意味で)と呼んでいます。 第一に、このリビドーを創作の源とする 第二に、工夫をし作品として具体化する 第三に、鑑賞者に影響を与え、それが新しい場所で新しい形となる 第四に、第三の変容と拡散がこの世界で連綿と繰り返される 以上が私の創作の目的であり夢でもあります。 なお、すべておいて「誰が」という作家性は不要です。 〈手始めに〉 今、野放図にリビドーのおもむくままの詩や掌編を書いています。まずは絵を描いてきたように文を描くこと。今のところ、書ける文章と書きたい文章はほぼ同じですが十分ではありません。 〈絵と文のちがい〉 かつて描いた絵は、線をどんどんつないでいって大きな作品になりました。細部ではそれぞれに要素が動き、全体ではまた異なる印象に。それを鑑賞する視線の自由さ。動きまわり、近づいたり離れたり。ところが文章は時間や順序を押しつけられます。鑑賞の豊かさのために、たとえば物語性に頼ることになります。 〈脱物語〉 たいていの物語では、筋とは無関係な要素を削ぎ落とし、都合よいものを選んで連ねます。「伏線の回収」は物語において大変好まれる仕組みで、回収されないで宙吊りにされた要素は、不可解・不親切だと見なされることさえあります。私はむしろそのような答え合わせ的な構造など必要ないという立場です。 楽しさや感動のための演出をせずに、「分からないけど面白い」を目指しています。この「面白い」は大衆的なエンターテイメントとはちがいます。ものめずらしさともちがいます。もちろん受け取り方は鑑賞側の自由です。 〈具体的に〉 単に文脈や物語性を排除するだけでは無意味で出鱈目な作品になってしまうでしょう。せめて因果の結びつきをなるべく解きたいところ。起承転結ではなく、起起起起、起承承承としたらどうでしょうか。物語性を欠き、読む気になれないかもしれません。実際に作品を書きながら、そうなっています。また、自己流の言葉遣いは見苦しさもあります。とは言え、それを軽々に否定すべきではないと思います。 〈大事なことがある〉 人とは言葉だけの生き物ではありません。全身体全生命においてぎりぎりのバランスで立って歩いて話して考えて胃腸で消化しています。細胞は常に死んで生まれてシナプスは忙しく発火してタンパク質は生成され、大...