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去勢について

私の詩では、男は去勢的な扱いを受けることが多いです。 従来、男性は女性よりも大きく強い体躯を持っています。女性と比較して生まれつき「 勝 か っている」というアドバンテージがあるのです。勝ち側が勝つのであればそれは強権となり、独占的支配的になります。バランスが良くありません。勝ちで生まれたなら、負ける必要があります。強者こそ優しくあるべきで、それによって調和が保たれます。 私の作る詩世界では、男たちは圧倒的な勝ち(前提とされた途方もなくたくましい体躯)であると同時に、去勢される運命にあり、それによって世界が成り立つという構造があります。男は勝てるというアドバンテージがゆえに負け続ける必要がある世界なのです。しかしそこに感情はありません。絶望も虚無もなくただ淡々と静謐です。 余談ですが、勝ちの優位さを自ら放棄し、負けから入ってくる者たちが現れ始めました。生物的、志向的、社会的に。これは私の詩においてではなく、現実世界の話です。予め負けていることで、攻撃的にふるまえる可能性が生じます。 なるほど、と思いながら私は様子を見ています。私の詩にもそんな存在を登場させてみてもいいかもしれません。

2025年抱負 文章を描く

〈無垢な欲望〉 私のなかに静かに燃える欲望の炎があります。私はこれをリビドー(ユング的な意味で)と呼んでいます。 第一に、このリビドーを創作の源とする 第二に、工夫をし作品として具体化する 第三に、鑑賞者に影響を与え、それが新しい場所で新しい形となる 第四に、第三の変容と拡散がこの世界で連綿と繰り返される 以上が私の創作の目的であり夢でもあります。 なお、すべておいて「誰が」という作家性は不要です。 〈手始めに〉 今、野放図にリビドーのおもむくままの詩や掌編を書いています。まずは絵を描いてきたように文を描くこと。今のところ、書ける文章と書きたい文章はほぼ同じですが十分ではありません。 〈絵と文のちがい〉 かつて描いた絵は、線をどんどんつないでいって大きな作品になりました。細部ではそれぞれに要素が動き、全体ではまた異なる印象に。それを鑑賞する視線の自由さ。動きまわり、近づいたり離れたり。ところが文章は時間や順序を押しつけられます。鑑賞の豊かさのために、たとえば物語性に頼ることになります。 〈脱物語〉 たいていの物語では、筋とは無関係な要素を削ぎ落とし、都合よいものを選んで連ねます。「伏線の回収」は物語において大変好まれる仕組みで、回収されないで宙吊りにされた要素は、不可解・不親切だと見なされることさえあります。私はむしろそのような答え合わせ的な構造など必要ないという立場です。 楽しさや感動のための演出をせずに、「分からないけど面白い」を目指しています。この「面白い」は大衆的なエンターテイメントとはちがいます。ものめずらしさともちがいます。もちろん受け取り方は鑑賞側の自由です。 〈具体的に〉 単に文脈や物語性を排除するだけでは無意味で出鱈目な作品になってしまうでしょう。せめて因果の結びつきをなるべく解きたいところ。起承転結ではなく、起起起起、起承承承としたらどうでしょうか。物語性を欠き、読む気になれないかもしれません。実際に作品を書きながら、そうなっています。また、自己流の言葉遣いは見苦しさもあります。とは言え、それを軽々に否定すべきではないと思います。 〈大事なことがある〉 人とは言葉だけの生き物ではありません。全身体全生命においてぎりぎりのバランスで立って歩いて話して考えて胃腸で消化しています。細胞は常に死んで生まれてシナプスは忙しく発火してタンパク質は生成され、大...

2010 - 2023年 絵描き活動総まとめ

2010年から続けてきた絵描き活動、いよいよ最後の年になりました。 2022-23年のまとめ 引き続き意識していたのはリビドーで、己の欲求のおもむくままに描くこと。これは原点回帰とも言えますが、かつてと質が異なります。自分の絵のタッチが固まってきて、思いつきを一枚にまとめられるようになりました。イラストや漫画のような絵です。圧倒的に増えたのが、人間のモチーフです。 SNSと和解したことも影響しているでしょう。そこで孤高に振る舞うのではなく、皆に面白がってもらうことを考えるようになりました。反応してもらえばそれが刺激となり、毎日絵を描いては投稿を繰り返し、数百点の絵を描くことができました。12月の1ヶ月間で、日々の記念日をモチーフにした絵を投稿したりしました。 それまでは、一般の作家や作品のあり方・周辺の状況に対する反骨心に燃えていました。 たとえば、絵をしばる額縁が嫌い、アトリエにこもる制作態度が嫌い、作品に作家性はいらない、鑑賞者がいて絵は完成する、絵は描かれる瞬間にある、描くたびに新しい宇宙を開く、等々。創作のために怒りの炎を自らに宿し、ひたすら実践・行動しました。これまでブログ記事に書いてきた通りです。それが大きく変化したのが、この2年間でした。 一方で、斎藤暁先生(理論物理を研究されています)に薫陶を受け、共著として本を上梓していただくなどしました。その中で、ほんのさわり部分ですが先生の論考から絵物語を描き起こすこともしました。また、『生成消滅図』という、白版・黒版で一幅(表裏)の精密画作品も仕上げました。これは世田谷にある’Global Room of Science & Art’ に展示していただいています。 プライベートでは、子供を授かるという一大イベントがありました。ただそれにより作品が影響されたかというと、全くありません。育児はもっぱら困難が多く、むしろそれから自由になるための創作であったように思います(発想と創作の源泉は潜在意識やリビドーによるものです)。生活の自由度が減って外へ出にくくなったため、イベント事もしなくなりました。 画業の総まとめ(2010〜2023年) 出会いも多く、外に出て活発に活動していました。コロナ禍を経て、インターネット中心の発信へと変わっていきました。 ⚫︎モチーフのねじれ、入り組んだ構成(ただし行き当たりばった...

2021年まとめ

2021年 創作を始めて10年。活動の中心は、 路上→ライブ→個展・作品集→科学・芸術サロン参加→ワークショップ→インターネット→個人 へ と移り変わってきました。 ずっと路上絵は描いていません。片耳の聴覚が不自由になりまた大きな音も苦手になって、音楽ライブへも足が遠のきました。もちろんウィルス流行のせいもあります。一時は活動のパートナー的存在であった中島さんは、遠方へと引っ越されました。一方で、「あかでみあ」という開かれた自由な科学・芸術サロンで齋藤先生に出会い、今は先生のプロジェクトと伴走しています。あとはSNSにいくつかのタネ(絵)を撒いて反応を楽しんだり、漫画のようなものを描こうとしたりしています。 中島さんと議論を深めたり、あかでみあに参加して以来、いろいろなシコリが溶解し、何かに怒ることもなく穏やかに創作と人のありように思いを巡らせることができるようになりました。自然界の仕組みというかカラクリというか、脳が描く世界と分子レベルの世界まで、だいたいつながりが見えてきて、また言葉の限界を知ってかえってホッとしたり。 今は何に興味があるかと言えば、たんぱく質(!?)ですね。付随して、細胞の働きと、それから身近すぎてうっかりしていたのですが、ウィルス、これは結構重要なファクターです。それらの「動き」が私の創作にとっては大いに参考になると思っています。 私の作品が鑑賞者の深層心理へ働きかけて、何か化学反応を引き起こす、長らくその人の深層に留まって時々思い出されたり、新たな活動や創作のきっかけとなる、さらには遺伝子のレベルで・・・ そういう願いは今も変わりません。このブログにもどこかに似た話が記されていたと思います。 一本の線が描かれれば、何かが生じる、何かが動く。 そう願い、また絵を描きます。

2018年まとめ

まず2018年の振り返りをします。 ◎私のなかに入力したことなど 制作、読書、人とのおしゃべり、インターネット、諸々の熱量が高まった。まだデスク周りのことが多いので、もう少し足を使い身体性の割合を増やしたい。路上で考える、とか。残り2ヶ月。 ◎創作活動 一方、創作に関しては定まらず。はじめは絵を整えようと努めていた。それが窮屈になり、はけ口を求めて落書きを描き散らかすことに。Es(リビドー、欲求)のままに。 ◎制作活動 その落書きをまとめて作品集を作った。一気に3冊。私にとって自分の作品は、もう他者のような存在だ。個展も作品集作りも、自分のためというより、生み出されてしまった作品に強制されているイメージ。でも今回、好き勝手にまとめてみたら、意外に楽しかった。 2019年は、はてさて。

踊る絵 絵でない絵へ

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今朝、内省しながら、ボリュームに対する欲望を感じた。 垂直方向や3次元・空間・造形への希求。 自分の作品を振り返ってみるに、 ・迷路のような絵 ・奇人(キャラクター = 2次元のフィギュア) ・立体絵(粘土による「立体の線」。どこからでも見られる絵) ・作品集(本・冊子という手応えへの欲望) ・個展の見せ方(ネットを吊るして絵を引っ掛ける手法/2013年の個展にて) ・3DCG(これもディスプレーで見る立体物) などなど...  すべては立体的なものに通じる道なのではないか? 私は「遠近法」に反感を抱いている。それは2次元に、計算で作り出す「疑似立体」だから。どうもニセモノの臭いがする。「本物そっくり」という「ニセモノ」。 そこで大和絵の「投影図法」に注目した。大和絵のような、べたっとした空間は視点を選ばない。均一で平等、無垢な表現に思える。巻物による、横スクロールの世界もこれに近い。 遠近法の世界は、視線はただひとつに固定される。とても私的で、絶対的な世界。宗教。 では、もっと広く考えてみよう。 絵それ自体も、大きく捉えれば、2次元に対する限定された視点を与えるものだ。それは「正面」から見なくてはならない。横や後ろからは見えない。 絵という構造物は、3次元に存在している。しかしそれは3次元から切り離され、独自の世界を内包し表出している。正面から見えればそれでよい、と主張している。絵そのものが、何百年もそう主張しつづけてきた。 これは網膜のサーカスだ。マルセル・デュシャンは網膜に訴求するだけの絵を批判している。絵を疑い、絵の存在性を疑った。私は彼とは少し異なり、絵の拡張性・可能性に注目している。 まず額縁がある。より絵の存在と現実空間とを分離するための道具(装置ですらない)。それどころか、権威まで付加してしまう(鬱陶しいかぎり)。 そこで画家も考える。額縁をやめ、キャンバスをやめ、別のものに描いたり、別のものに絵を入れてみたらどうだろうと。彼らは、絵の世界に寄り添う、新しい装置を見出そうとしている。この辺から、絵という存在が「厚み」を増してくる。 厚みのある世界、存在感。ここで言いたいのは、描かれているものの性質にとどまらない、物としての絵である。網膜の遊戯ではない、重みのある、身体性をともなった価値観のこと。身体で体験する...

ソリッド・ステイト

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あまり伝わっていないので、もう一度。 今年は「立体で絵を描く」「立体に絵を描く」。 正面から しか 見られない絵(平面)ではなく どこからでも眺められる絵(立体)を作ります。 それはこんなふう。 思いのままに立体を「作画」していく。 これはあくまでも 彫像ではなく絵 なのです。 この世界は面白いですよ。 ※追加 2013.4.6 ※追加 2013.4.13

究極の絵描きとは

究極の絵描き それは 絵を描かないこと 「描かないで描くこと」 幕が開くと 私は何もない空間にいて 何もない中空(のカンバス)に 踊るような仕草(見えないインク)で 絵を描く 観客は指先を見つめている 指の軌道が描く見えない絵を それぞれの心に思い描いてくれることだろう そういうパフォーマンスもやってみたい

2013年抱負

平面存在である、絵に物足りなさを感じている。 そこで今年の個展では 絵を「壁から離して」展示してみた。 それにしても絵は 真横や後ろから見ることはできない。 紙という薄っぺらな素材のはかなさ。 もっと生々しい(= 物々しい!)空間性がほしい。脱 平面を。 そこで次の実験。 「絵を立体に」できないか。 あるいは「立体に絵を」描く。 ◎2013年のサマプロジェクトはこれ、 立体(立体でない)、造形(非造形)、まわりこみ、奥行き、入れ子、超遠近法。 加えられるエッセンスは、作品という劇場、絵という建築、生み出す身体性、透明なアトリエ。 ◉次の個展は2013年の秋。 おそらくは狭い部屋で、ムンとした空気、妖しげな影に彩られ、 「身体」や「声」や「言葉」を交え、揺さぶり、眠るように、 サマの 立体絵画 が 語られる イベント、 奇妙な小部屋 ふうの個展にします。 まだ妄想段階ながらもうひとつ、 ボディペインティング + ダンス 。 立体である「肉体」を「カンバス」として、そこに白描画をものし、その肉体をもって空間の中で踊る(新世界を切り開く)というイベント。 私の描いた線をやどした肉体が、 空間にダンスによる軌跡を描いていく、 その二重性による表現。 ダンサーはヒトでもなくモノでもない。 ただ一個の世界としてそのものを空間に刻み、軌跡を残してゆく。 見る者の網膜へ、脳へ、その世界を浸透させてゆく。 可能ならばその舞台には「仕掛け」をしたい。 傍観者たちの視線をはねかえし、裸体踊りという、好奇の対象になりかねない状況を一変させるもの、傍観者たちまでも現場に引きずりこむための装置。 (独身者たちを独身者にとどめさせない制裁的装置と言ってもいい。) ──それは「鏡」である。舞台の背景として鏡をおく。すべての視線を入れ子状態にし、蔑み、回帰させた上で、その舞台上の世界へと封じこめるだろう。 この企画、実現できれば緊張感に満ち満ちた異空間が出現すると思うが、さて…

個展感想 江村あるめ「箱庭の秩序」

ガレージのような、建築現場の足場ような会場である。 むき出しのコンクリート、空調の音ははるか荒野の風、カチカチと鳴る金属のささやき、それらが大きな箱庭となっている、そこに人形たちの宴の場が広がっていた。 江村あるめさんの個展「箱庭の秩序」。 入り口に立ち、ただならぬ空間の密度にまず圧倒される。

ライブ絵描き心得

・筆記具: 壁に貼った1mの紙を、5m離れて見るなら、何ミリの太さで絵を描けばよい? 私の選択は、筆。筆は万能筆記具。細い線から太い線まで描け、やわらかな曲線も自由自在。手首の動きにぴったり反応してくれる。極太サインペンでは難しい。そこで、筆ペン(顔料インク)。より黒く、濃く、裏染みがない。ライブ絵描きに好都合。 ・紙:ケンラン。ケント紙に似ている。B全サイズまである。 ・服:地味で、描いている絵を邪魔しないもの。  ・手袋:手汗を防ぎ、墨汚れを抑える。  ・時計:きちんと時間内に仕上げたい。 ・動き:激しく動いたり、ゆったり動いたり。なるべく絵を描く「手もと」を見せる。自分の体がじゃまになるので、横から斜めから下から描く。透明人間ならなお良い。絵描きライブとは、線が生まれる今を目撃できる場であるので。 絵描きの体で手先が見えなかったり、同じ線をくり返す・先行きがわかる描き方では、お客さんは気が抜けてしまう。そういう空気は自分の背中に客席から伝わってくる。インターネット中継のときでさえ、それを感じることがある。そこで、「この部分を完成したい」という思いを断って、全く別の部分を描き始める。お客に完成形を想像させない描き方をしたい。 ともかくも、胡散くさい「アート」とか「パフォーマンス」よ、さらば!である。 花や蝶や女の子、あるいは感情にまかせた抽象を描いて、絵の具を塗りたくってお客さんと興奮してうわー幸せだーありがとう!などというようなライブではなく。 私は、スッと入ってグッと止める・跳ねる、そんな気持ちの良い見世物がしたい。 実際やってみればわかることもある。 筆はペンよりも紙に接してから離れるまでの「なめらかさ」がある。筆を紙からはなすときには、心と体も紙の上からはなれる実感がある。一本の線を描き切ったあと、紙の上に気持ちが残る。そんな描線は饒舌だ。 筆を紙からはなす「出」に合わせて、なぜか体も余韻を求めるように動こうとする。踊るようなその感覚を発見し、驚く。それはライブ本番という緊張感・集中力であればこそだろう。 すべてが終わって振り返ればお客さんが見ている。絵と絵描きがいる。渾然一体となった空間がある。

アンデパンダン抄

六本木をそぞろ歩いた先の、ガラスうねるビル。国立新美術館。アンデパンダン展を見た。「作家の自主性と真の豊かな創造性を保障する」自由な展覧会をうたう。 まずは、胎動、動機、混沌、爆発‥‥をイメージして展示室へ。 たくさんの作家、作品。ゆうに千点以上。「そろそろ終わりか」と思った時点がまだ半分。 立体が分解している超現実的な絵。鉄材をモチーフにしたシュールな絵。奇妙な竹林に女とキツネ面の絵。震災の絵も多い。展覧会全体、トーン低く重々しい。でもドロドロではなく、清冽・真摯な意志を感じる。 彫刻・インスタレーションにも面白い作品が。新聞紙などを同じ幅で切り、束ねてうねる模様にしたレリーフも素晴らしい。密集した紙の断面がつくる不思議なテクスチャ。遠くから見るとグレーの綱のよう。「地球脱出」は月のようなものに抱きついた小さな親子、かわいらしさにアイロニーがにじむ。 海外からの招待作品もあり。これが独特。全くちがう、魅惑的、くやしい。 さて、期待していた「爆発!」‥‥は、なかった。「喪明け」はまだなのだろうか。 喪を引き裂いて飛び出してくるものへの期待があったけれど、気が早かったか。 小学校の子どもたちが作ったカラフルなお面の展示があった。彼らが書いた使用説明書には、 「きらきらした光」「からだがきれいになる」「ほうしゃのうばいばい」‥‥と、お面のもつ絶大なる効果。素晴らしいのはその形と色の荒唐無稽な美、エネルギー。小さな人たちでさえ、ここまで昇華しきっている。喝采だ。 すべてを見終え、私は「心の裂けめから発芽する、希望のような力強さ」を静かに渇望している。