ひとがたの宴に囚われる(江村あるめ「箱庭の秩序」にて)

ガレージのような、建築現場の足場ような会場である。
むき出しのコンクリート、空調の音ははるか荒野の風、カチカチと鳴る金属のささやき、それらが大きな箱庭となっている、そこに人形たちの宴の場が広がっていた。
江村あるめさんの個展「箱庭の秩序」。
入り口に立ち、ただならぬ空間の密度にまず圧倒される。

◎パーソナルスペース
人と人とがおたがいに取る距離感。人形にも距離感があり、一人一人と向き合うためには展示空間も広い方がいい。しかし広く取っていても人形たちの発する気配が濃厚なら、その空間はとても濃密なものとなる。ただならぬ気配の密会にまぎれこみ、私はただの無防備な人間と化す。
いくつかの人形の視線が集まる場所に立ってみた。私は無言の自己紹介をする。やっと彼らの呼吸がわかるくらいに 私も落ち着いていく。

◎人形 : 人と物の「あいだ」の存在。
そもそもの疑問。ハンス・ベルメールの「球体関節」という手法 なぜ皆丸い玉を使うのか? そのシンプルな問いを江村さんに。‥‥まず球というかたちの美しさ、存在感。さらには「可動」という可能性の主張。「私は動きますよ」という人形からのメッセージ。そのための明快な装置が、球体関節というもの。彼ら彼女らは 球を要所に備えることで、物よりも人に近づこうとしているのだろう。
一方、固定されたポーズの人形は「写真のようです」と江村さんは言う。時間から切りとられている。球体関節人形は、時間の流れそのものに「いる/いつづける」存在。
さらにはこの球というかたち、人形(ひとがた)に組み合わされると不意にエロティシズムをさそう、それも不思議だ。

◎内と外
「人形の体内は空洞なのです」その様子も見せたかった という作品群。
とりわけ『羽化』は特異な様態をさらしている。肌の色が他の人形とは違い、ラスティで重い。
胸から腹へと十字の細い裂け目、割れた頭。空疎。すべてが過ぎ去ったのちに残された抜け殻を思わせる。足はなく、ただ廃墟のような小さく曲がったペニス、その先端は灰皿に押しつけた煙草のよう。この人形『羽化』という文脈の それが終止符「。」となっている。
内側に閉じこめた世界も面白いし、このように開いてしまった人形(むしろ様態)も興味深い。

◎人形が仮面を
うすい仮面をかぶった人形。その二重性。仮面はいくつかあり、ひとつはぐにゃりと歪んでしまっていた。私が江村さんの個展を見たいと思ったきっかけのブログ記事のひとつ。個展を見たあとでも、私の中ではまだこの抽象を整理できずにいる。
仮面というモチーフは広く果てしない。深入りは危険、かもしれない。

◎浮遊感
人形というかたちを作り始めた途端、そこにある「重力」が気になってしまうという。「立たせなくてもいい」と切り替えたことで人形は 人と物のあいださえからも 解き放たれたのだろう。細くしなやかに長い肢体で、地を離れた人形たちがいる。彼女らはかかとに、まるでハイヒールのような長い突起を持つ。立てないことで浮遊を象徴する。それは翼でなくてもいいのだ。

◎クジラという世界
大きな生物、クジラは「写真でも怖い」もの。その恐れをおそらくは畏怖に替え、世界の象徴とした。『白い庭』の彼女はワイヤーを交差され、なお小刻みに風に揺れていた。彼女はおしゃべりだっだ。何せそのただれたような腹のすきまから、世界であるクジラを見せているのだ。左手は右肩を通り、右手の指間から左手の指が出始めている(どういうこと?実際の作品を見て観相されたし)。この発想は本当に好きだし、驚きだ。ほかの重要な作品『灰の軌跡』では、左手を後ろへ折りまげそれを翼に(‥‥言葉すらもどかしい、ぜひ作品と対面の上、左肩のうらがわをご覧いただきたい)

◎クジラへの(からの)変容(メタモル)
『沈潜』0時、1時、3時 とタイトルに付記されている。下半身がクジラへと変容していく。あるいは『3時』においては身体さえも ない。『1時』の彼女の瞳がひどく悲しげに見えた。さほどに世界は容易ではない。

彼ら彼女らとは別に、姿を現したクジラのシリーズ(「界鯨歌」)があり、それはパラレルワールドということなので、対してのメインストーリーもあるのだろう。今後、作品の立つ世界が作者の言葉でゆったりと語られていくのだろうと期待している。

‥‥ここまで 熱にほだされた子供が書いた稚拙な作文のように、私の思いの襞(ひだ)を広げてきたが、まるで今日知り合った魅力的な友人たちのことをつづっているような感覚がある。
彼らの様子がくり返しくり返し思い出され、私は心で彼らに話しかけつづけている。どうやら私も「箱庭」にとらわれ、その「秩序」に従わさせられつつあるようだ。

江村あるめさんの個展「箱庭の秩序」は、11月25日(日)まで 東京渋谷ギャラリールデコで。
全ての作品がそうであるように、モニターや写真と、生で見るものはまるでちがうものですね。