画家のブラックボックス 事件です。

作家は密室で作品を作る。 作家は一個のブラックボックス。
 ‥‥ある晩 画家は自分の箱の中で 標本 となって発見される。
展示会はそしらぬ顔でおこなわれ、作品だけが「したり顔」でよそよそしく陳列された。
刑事は歯がみして叫んだ「何かが生まれる瞬間 が隠されたままだ!」
展示会場は、口のない画家の顔 そのもの。何か大切なものが抜け落ちている!

そもそも。
筆が紙へ着地する瞬間・手が造形する瞬間・身体が何かを作り出す瞬間 を見ずして見せずして「創作体験」といえるのかどうか。
水滴がしたたる様子は 閉じられて分からず、我々が見られるのは ただそこにできた「水たまり」だけ‥‥なんて退屈、つまらない。


「証言は?」と刑事。
個展をやりました。人々は私にこうたずねるのです。「時間はどれくらい?」「どうやって描きましたか?」「どこからどんなふうに?」「何を考えて?」「道具は何を?」「下書きは?」‥‥つまりだれだって 作品ができる、その火花散る・生々しい瞬間 が見たいのです。

「画家は何を?」作家は、そう、だらしのない格好で脂汗かきながら、ふうふう、はあはあ 箱の中でやってましたよ。ええ 知ってますとも、それはもう秘密でも何でもないことですから。
作家がアトリエにこもって、作品とやらを世の中に自動生成する そういうのはいっそ時代遅れにしてしまいたいものですな。

個展・ギャラリー・作品集 とか、そんな古くさい既成媒体から 飛び出していきたい。
作家よ 外へ出よ。街はすべては「透明なアトリエ」。
装備(警戒心)はいらない。自分の身ひとつ、顔ひとつ、さえない頭、ぎこちない言葉だけでよい。

◉私は実験する
駅前の雑踏、街角、食道、美容室、なんでもない公園、待合室、ありふれた場所。
スケッチを広げて絵を描く。別に風景をデッサンするわけではない。ひたすら好きに描く。
その環境が絵ににじみ出てくることはある。それも大切な「味」。排斥する必要はない。テクノクラートである必要はない。

意気地はあった方がいい。逆に 薄っぺらいのが 格好つけてるかっこ悪さったらない。
ではどうするか。答はシンプル。いっぺん阿呆になって考る。阿呆のごとくにやってみる。
そうすりゃ世の中、意外に 面白いもの が見えてくるてぇもんだ。

◉たとえばの実験「駅前の雑踏をアトリエにする」‥‥さて何が起きたか? 後日。