おいてけテイケー

テイケーは定型。おさだまり。
英語や日本語に文法があるように、音楽にも決まった仕組みがある。和音、リズム、音階のつぶつぶ。構成要素がはっきりしている。ピアノの鍵盤をめちゃくちゃにたたいても、曲にはならない。
ひるがえって絵画は?
線も色も、限りない。無限の階調がある。あるけれども、まったく自由かというと、どうやらそうでもない。
たとえば、構図。人や物を描けば、わかりやすい方向になる(する)し、したくなる。そのものがよくわからない「とんでもない方向」から描いた絵なんて、あまり見ない。たいていは人の視線・視界を意識して描かれるもの。
そうでない常識からはみ出した絵々は「意味がない」「わからない」と言われる底に落っこちる。芸術家は創作し、と同時に「だれか」とも向きあっているのだろう。


(続き)

私は「意味のある線・意味のある方向」と「おかしな方向・とんでもない線」を平等に扱ってあげたい思いに駆られる。どんな線でも拾い上げたい。ポンと紙上に置いてみたい。でなけりゃポケットに入れておきたい。
それがいつかは人々の耳目をギュウとねじり上げる*「なんだこれは!」というギリギリの一線(一閃)に、そんな線を祭を幻を、夢見る寝見る練り見るミニマル見世物の日々毎々、マイマイつむりの 長歩き**。
奔放まるだしなげだしパースペクティブ、陽気な立体。立体たちは踊りだせ。
あらゆる方向へ飛びだしてゆくし、あらゆる方向から飛びこんでくる。永遠・夢幻の大祭り。
三次元ですらなくていい。多次元なり、無次元なり、そっちもこっちも ござれござれ。

「その視線をバッとつかんで、ほうり投げろ。
さあさあ 何が見える?」***
目玉おやじである。
* ギュウとねじり上げる、略して「ギュウじる」。
** マイマイつむりはカタつむり。片方つむればウインクと化す。通ったあとには、銀の小径(こみち)がするする残る。
*** 視点ではなくて、線の方。飛び散るビーム、めちゃくちゃなスポットライト、のイメージ。
  一方、目玉おやじこそは究極の視点。どうせなら黒目だけでも。瞳孔、網膜、トコトコのこのこ一人歩きす。